二人の時間


 クリスティーヌは見つめていた。彼の指が鍵盤を押し、離すのを。音楽を作っているのではなく、ただ鍵盤を押しているの姿を。オルガンの前に立ったまま雨垂れのように鍵盤に指を落とすだけで、ファントムは音楽に触ろうとしなかった。こんなに長いこと音楽が聞こえないのも珍しいわね、とクリスティーヌはソファで一人ごちる。優しい夜の、おやすみを言う前にはいつも耳を撫でた音楽は、今夜に限ってはない。
 やがてファントムは少し早いテンポで曲を弾き始めた。それはクリスティーヌの父親がクリスティーヌをあやすために作った単純な曲で、クリスティーヌにしてみれば最も身近な曲であり、また幼い頃は姿の見えないファントムと一緒に歌った、思い出深い曲でもある。片手で、それこそ子供の頭を撫でるようにオルガンを弾くファントムの目は、その曲を呼び水にオルガンとの調和を図っているように見えた。だが指先を見る限りでは、音はオルガンのパイプを揺らす以上のことはしそうにない。それはクリスティーヌが歌を口ずさんでも変わらず、階段を降りきるかのようにオルガンの音が終わった。
 ため息に似た息を吐いて、ファントムはついにオルガンから離れた。やれやれ、とこぼしながらクリスティーヌの隣に座る。
「今夜はオルガンが言うことをきいてくれないみたいね」 
 笑ったクリスティーヌに、ファントムもつられて頬を綻ばせた。 
「楽器は、時々私を困らせる」
 そう言って、ファントムはクリスティーヌを膝の上に引き上げた。もたれたクリスティーヌの体温を胸に感じながら言葉を続ける。
「私が調律しようとすると機嫌が悪いふりをし、弾こうとすると音を抑えてしまう。決して気まぐれではなく、私に何か伝えようとしているのだろうが、残念ながら私は私の大事で貴重な楽器に何を言えばいいのかわからない。楽器は気難しく時に手に余る」
 だから、とファントムはクリスティーヌの髪から肩へ、そして腕へとゆっくりと手を滑らせた。ファントムの革手袋とクリスティーヌのレースの化粧着がこすれる音が低く聞こえる。
「私は楽器に触れる。私の手に触れ、私の手から音楽を感じ取って欲しいとね。世に機微なるものは多くあるが、楽器もその中の一つだろう。触れれば音は鳴るだろうが、それではただの空気の振動に過ぎない」
 ファントムの掌はまるで吸い付くようだった。耳元で囁きかける声は体温と混ざり、クリスティーヌの内側へと浸透していく。クリスティーヌは体を撫でるファントムの手にそっと掌を重ねて、ファントムの触れた熱感を全身で味わっている。ファントムも、沈み込むように身を任せているクリスティーヌの柔らかな体に手を添え、二人の間でわだかまる体温をかき消さないように撫で上げる。どちらかの口から小さく甘いため息が漏れた。
「音が息吹くのに私が何故煩わしいと思うだろうか? 楽器が最上の喜びを得るなら私は跪きもしよう。無二と言うのならばそれは楽器にとっても同じことではないか? この手が常に思うのは唯一の楽器で、その楽器がただ思うのは私の手であってほしいものだが」
「楽器は嬉しくて欲張りになってるのよ。もっと温かな手に触れてほしくて意地悪をしてしまうんだわ」
 子犬のように、クリスティーヌは頬を撫でるファントムの指に軽く歯を立てた。柔らかな革手袋越しに押し返すファントムの皮膚の感触は、直接でないからこそ肌をチリチリと強く刺激したようだった。髪に何度もキスを繰り返すファントムの頬と手に手を添え、手袋だけを噛んで引っ張った。まるでオルガンの音が尾を引くように手袋が引かれ、二人の体温が移った手袋が膝の上に落ちる。熱で少し湿った大きな手が体をなぞっていき、クリスティーヌは長く浅く息を吐きながら目を閉じた。
「あなたの楽器に言っておくわね。あなたが斉奏する相手はファントム以外に誰も考えていないのに、困らせちゃいけないって」
「だが困っていながら実は内心では喜んでいるともお伝え願えるかな。楽器に殉じる男のために」

-end



Anywhere you go.Let me go too.一木深帆様から頂きました。
イラストからSSを書いて頂けるという喜び!
一木さんのファントムとクリスティーヌからは、いつも緩やかで深い愛情が滲み出ていてうっとりします。
楽器について普通に語っているのに、クリスティーヌに愛を語っているかのようで、2人のふれあいから熱を感じる。
あぁ〜、素敵です。この気持ちを上手く言葉に出来なくてもどかしい。
こんなに素敵なSSを書いて頂けて私は幸せ者です!
一木深帆さん、本当にありがとうございました!!

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